こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
気がつけば近所の早咲き桜が咲き始めました。
私の住んでいるエリアは桜並木が沢山あってこの時期になるとワクワクしてきます。
花には時期や旬というものがあります。
時がうみだす結晶が花という言い方もできるのではないでしょうか
まことの花
という真(マコト)という事を度々考えます。
聞いたことがある方は多いでしょうが、世阿弥は年齢毎にもつ花の特徴を説いてます。
その一部が
青年期(24〜25歳の頃)
このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる 時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向か ふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人 などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初む るなり。これ、かへすがへす主のため仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍し き花なり。真の目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、極めたる様に主の思いて、は や申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに 勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん 人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。
されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花にお きて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。一公案して思ふべし。わが位のほどほ どよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するな り。よくよく心得べし。現代文訳
この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、時代の名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。
そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てています。
「されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこのころの事なり」(新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠い。そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはない。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。)
自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要なのです。
壮年後期(44〜45歳の頃)
このころよりは、能のてだて、おほかた変わるべし。たとひ、天下に許され、能に徳法したりとも、それにつき ても、よきわきのしてを持つべし。能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそめの花も、 失するなり。まづ、すぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りてはみられぬものなり。 さるほどに、このひとむきは欠けたり。このころよりは、さのみに、こまかなるものまねをばすまじきなり。おほ かた似合たる風体を、やすやすと、骨を折らで、わきにしてに花を持たせて、あひしらひの様に、すくなすくなと すべし。たとひわきのしてなからんにしても、いよいよこまかにみをくだく能をばすまじきなり。なにとしても、 よそめ花なし。もし、このころまで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。それは、五十近くまで失せざら む花を持ちたるしてならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ天下の許されを得たるしてなりとも、さ様 の上手は、ことにわが身を知るべければ、なほなほわきのしてを嗜み、さのみに身をくだきて、難のみゆべき能を ばすまじきなり。か様にわが身を知る心、得たる人の心なるべし。
現代文訳
「よそ目の花も失するなり」
この時期についてのべた世阿弥のことばです。どんなに頂点を極めた者でも衰えが見え始め、観客には「花」があるように見えなくなってくる。この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるが、そうだとしても、この時期は、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきだ、と世阿弥は説きます。
この時期、一番しておかなければならないこととして世阿弥が挙げているのは、後継者の育成です。自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に伝える最適な時期だというのです。
世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残しています。後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて舞台をつとめよ、との意で、「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」(自分の身を知り、限界を知る人こそ、名人といえる)と説くのです。
解説は 世阿弥のことば:7段階の人生論より引用させてもらいました。
能の奥義(原理)と達人の型(原型)を真似ることから始まり
「離見の見」によって奥義(原理)を自らの二つの世界(心)と呼応させることで
その一瞬の時を結晶化するものが「花」
とも言えるのであろう
また、世阿弥は
秘すれば花、秘せねば花なるべからずとなり
この分け目を知ること、肝要の花なり
とも説いていて、
奥義(原理)を隠して真(マコト)の花をもって初心の「時分の花」を咲かせる
と私は感じましたが
ここに価値がうまれてくるという芸能に限らず、私達職人の世界にも通ずる世界観があるように感じています。
真(マコト)の花から「真」とは?と眺めてみた時
「真(マコト)の人」というフレーズもありましたね
『徒然草』です。
日本三大随筆ともいわれる作品で、
つれづれなるままに、、、
と書かれていますが、吉田兼好は神道の名門の出て、幼少期から恵まれた環境で育って、才能にも恵まれていた人物だそうです。
今回のテーマである「真(マコト)」を吉田兼好はこの徒然草のなかで頻繁に使っています。
そのなかで、「真の人」について触れています。
この場合の「真の人」とは、道徳を成就した人、真理を悟った人、真人と広辞苑では説明しています。
では、吉田兼好が「真の人」の特徴としてこのように説いてます。
38段:名利(みょうり)に使はれて、閑か(しずか)なる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ(かい)、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐ(なぐ)べし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏(ひとえ)に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る(そしる)人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。
現代語訳
名誉や利益に使役されて、心を静かに穏やかに保つ時間もなく、一生を苦しむのは愚かである。
財産が多ければ、財産を守ることに精一杯で、自分の身を守れなくなる。財産は、害を生みだし、災いを招く媒介になってしまうこともある。自分が死んだ後に、金銭が山と積み上げられて北斗星を支えるほどの栄華があっても、残された人々に余計な厄介ごと(遺産相続の紛争)を残すだけだ。愚かな人の目を楽しませる趣味も、また虚しい。大きな車、肥えた立派な馬、宝石や黄金の飾りも、風流を解する心ある人ならば、つまらなくて愚かな俗物趣味の産物と見るだけである。金銭を山に捨てて、宝石は川に投げ捨てたほうがいい。金銭・利益に惑わされるのは、一番愚かなことである。
永遠に消えない名誉・名声を後世にまで残したいというのは、誰もがそう願うことであろう。しかし、高位高官を得た高貴な人たちが、本当に優れた人たちだと言えるだろうか。愚かで思慮が足りない人でも、それなりの名門・名家の家柄に生まれて、時流に乗ることができれば、高位高官に上り詰めて贅沢な生活ができる。反対に、並外れた才覚・人柄を持つ賢人や聖人が、卑賤な官位に留まって、時流に乗ることができずに、そのままこの世を去ってしまうことも多い。故に、高位高官に上って名声を残そうとするのは、財力を求めることの次に愚かなことである。
世間一般の人よりも優れた知恵と精神を持っていれば、知性において名誉を残したいと思うものだが、よくよく考えてみれば、知性・賢さに関する名誉を欲するということは、世間の評判を求めているだけのことである。自分を褒める人もけなす人も、共にいつかはこの世からいなくなってしまう。自分の賢さについての評判を伝え聞いていた人も、また遠からずこの世を去ってしまい、自分の名誉も消え去ってしまう。(そういった諸行無常の世において)自分の名誉を、誰に対して恥ずかしく思い、誰に認められたいと願うのだろうか。名誉は誹謗(非難)の原因でもある。死んだ後に、名誉名声が残っても何にもならない。知恵・賢さの名誉を求めようとするのは、高位高官を求めることの次に愚かなことである。
しかし、本気で知恵を求め、賢明さの獲得を願っている人に敢えて言うならば。知恵があるからこそ偽りが生まれるのである。才能とは、煩悩(欲望)の増長したものに過ぎない。人から伝え聞いて、書物で読み知ったような知識は、真の知識(知恵)ではないのだ。では、どういったものが、本当の知識と言えるのだろうか。世の中でいう可、不可とは、明確な区別があるものではなく一条の流れである。真の知性を体得した賢人には、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。こんな脱俗の境地を誰が知っていて、誰が伝えることができるだろうか。これは、徳性(仁徳)を隠して、愚を装うだけの境地ではない。初めから、真の賢者は、賢と愚(頭の良さの高低)・得と失(損得)を区別して満足するような相対的な境地にはいないからである。
迷いの心を持って、名誉や金銭を欲すると、全てが愚かな結末を迎えてしまう。名誉・金銭に関わる世俗の万事は、すべて否定されるべきことだ。(あなたが様々な不満・迷いを抱えているにしても)語るに足らず、願うに足りないということである。
随筆とはいえ、これを読むと私は何かを得たいだけなのか?と自問自答したくなる。
「真の人」をイメージすると私の友人にいる。
奥義(原理)と型(原型)をマスターしながらも
自分をアピールせず、
ただひたすら彼の良いもの(真実)を人々に提供している
そこには「時分の花」もあったし「まことの花」もある
私に出来る事では無いが、せめてそういう人の花(真実)をしっかり受け止めて生きていきたいものです。
モトよりいでて、マコトとなす
サクラの時分にて
今回のテーマ「花」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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