こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
「縁」を求めて神社仏閣へ足を運んだ方は少なくないでしょう。
「縁結びの神」とか「良縁の神」など言われている場所も多いですよね。
今回はこの「縁(エン)」又は「縁起(エンギ)」という言葉から、カラダへのアプローチする視点と、自分と周囲との「縁」の形成の根幹を眺めてみたいと思います。
時空の旅のようなイメージと言ったら大袈裟でしょうか。
縁を日常で考えると、
日本では「縁」は求めて神社仏閣に行って願って良縁を求めたり
袖すり合うも他生の縁と言って、過去世まで遡っても人との繋がりを大事に思う文化の様なものがありますね。
神社では神のお導き(仲介)を願い
お寺では縁起を担ぎます。
自分の人生の中では験(げん)を担ぐなどとも言ってますね。
神道の世界観では、鏡の奥の有と無を繋ぐゼロ地点の神という存在
仏教の世界では因果の法則を導く「縁起」という概念があり、胎蔵界曼荼羅が主にその現場とも言えるのでしょうか
これらは哲学的な表現で言えば
「時間と空間を織り成す場」で「0→1」の「→」の働きを縁起と言っている様に私は捉えています。
化学反応で言えば「触媒」と表現することもできそうです。
今風に言えば、「情報の源」と言った感じでしょう。
古代の言い方からならアカシックの領域への憧れや探求ですね。
「縁」というのは私の捉えているところでは、
宇宙のソース(ゼロ地点)から時空間を瞬間瞬間発生してきている現場
宇宙の機織りである「時間の縦糸」に「空間の横糸」の絡み合う点と点の繋がりが現実世界へ着地した時にオーガニック(有機的)な繋がりとして「縁」という見えないけど確かにある繋がりというものができている。
古代の叡智の表現を借りれば、
太極から時空を織り成しながら鏡面の八卦まで織り込み(胎蔵界曼荼羅)、現実空間へ64卦という宇宙の有機的繋がりの現実が表現される(金剛界曼荼羅)という領域ですね。
なので現実が生まれる一歩手前と言えば分かりやすいでしょうか。
現代のように情報化社会だと昔の人以上により先端又は一歩未来の情報を手にしたいと感じてしまうのは当然のことかもしれません。
だから未来に対しての「不安」「恐怖」「憧れ」「願望」などがより湧き上がってきます。
社会の様子を見れば納得かもしれません。
勿論私の中にも日々沸き起こる感情でもあります。
なので、宇宙のゼロ地点の門番とも言える神仏にすがりたくなります。
これは私達だけではなく、古代の人々も同じで、結果的に宗教などが発生してきます。
太古はジャーマンのような存在がいていろんな方法で神(ゼロ地点)にアクセスしていました。
祈祷や占いなどの神事や、大麻やコカを使った方法
近年も世界的に大麻が見直される流れや、
コカインを始め覚醒剤類での取り締まりが徐々に目立ち始めましたが、これも古代から行われたものでもありますが、現代に利用して良縁としてカラダに再現するには非常に危険ですよね。
若干道がそれますが、これらの特徴を私なりに言うと、
大麻類は医療ではよく使われていて、喘息やガンや鬱や痛みの緩和にかなり薄めて使っています。
覚醒剤・コカイン類も原料はパーキンソン病などの治療で使われるため非常に管理が厳しいものです。
大麻と覚醒剤は似た者に見えますが、働きを見ると真逆のの働きになります。
ざっくり抽象的に表現するならば、大麻はインドの行者が使っていた通りインナートリップです。自分の内なる世界に入っていきます。時間が止まると言えば良いでしょうか。薬で利用する場合は興奮して時間を先走ってしまうアレルギー症状やガンの時間を引き戻して(遅く)くれます。よく言えば癒しになりますがやり過ぎは内側の閉じた世界に引きこもり繋がりが絶たれそれが解放感に繋がっているのでしょう。世界が内部に閉じて完結してしまうので関係性か離れたい意識には天国なのかもしれません。
一方覚醒剤やコカインは時間を先走りさせ(神経を興奮させ)未来をキャッチするような感覚といえそうです。なのでアーティスト系の方が創作力を得たいために手を出してしまうのでしょうね。大麻とは反対に解放的で超能力を得たかのような感覚なのでしょう。
太古の人はこれらの特徴を活かしてゼロ地点にアクセスしようと試みたのでしょうね。
しかし、残念ながら、ゼロ地点にアクセスできるのは時間がピッタリフィットしなければ、ただ別次元にトリップ(彷徨い)してしまい現実に着地できなくなります。常習犯が辞められなくなる背景かもしれません。
簡単にいえば、「今」という瞬間にフィット出来なければゼロにもならないという事です。
要はやっても現代では脳が壊れるだけで、人間性にはマイナスしかないと思った方が賢明です。
人々の憧れや恐れは未来から時空を旅したくなるのですが、
実際はヨーガのような体感と意識の世界から
一瞬の「間」に垣間見る完全さ(ゼロ地点)を経験するしかないのではないでしょうか?(現実の経験とはちがいますが)
茶道、武道などが、今という瞬間の完全性を追求する世界を構えや所作の間合いの中に見出しその瞬間(今)をゼロ地点へのチャンネルとして「道(みち)」を追求する世界観があると、
日本では文化として構築してきたのではないでしょうか?分かりやすいのが芸能で世阿弥が著した「風姿花伝・三道」の世界観かもしれませんね。
「〜道を極める」という事は「動」と「動」の間合いの一瞬の「静止」の中にあるとも見えます。
だんだん怪しいトリップになってきましたので
カラダの小宇宙に目を向けてみます。
ここでもゼロ地点との鏡(境・道)とも言えるものがあります。
先ずは古代の世界観も参考になるのでアーユルヴェーダの背景にある世界観に触れてみます。
体にやさしいインド―神秘と科学の国の「生きる知恵」 の著者である伊藤武氏の表現を借りると、
「零(ゼロ)という概念を発見したインド人の発想に従えば “無いものを食べる” となる。
野獣は具合が悪いと窩(あなぐら)に籠って無いものを食べて癒す。
絶食して、体の老廃物を便や汗にして出してしまうわけだ。
昆虫や爬虫類も、変態する時には無いものを食べる。絶食という手続きを経ることによって、変態を促すホルモンが合成されるのである。
インド人も病になると、医者にかかる前に断食する事が多い。
だいたいはこれで癒ってしまうそうである。
毒が排泄されるとともに、免疫力、治癒力が増大するであろう。
いずれも零の神秘である。
無いけど有る、でも何も無い時間を生み出すことで、カラダが本来のホームポジションへ戻ろうとする力が発動するのです。
カラダの小宇宙の時空の織り直しがはじまり自ずとリセットされ整う世界観です。
「縁」の触媒が働き結び直されます。
余談ですが、今ならでは、ゼロが漢字で「零」となり令の意味合いとリンクさせても面白いですね
さて、「エン」という音と次元の境目にある現場の一つに「血液」があります。
これは非常に特殊な存在で、人間の手では作る事ができません。
血液には「塩(エン)」があります。
塩基(エンキ)といわれます。
これからは血液のみならず、全身の時間軸を真ん中に整っていないと命が脅かされます。
酸・アルカリとも言われますが、ほんの少しでも時間軸がずれてしまうと大変な状態に陥ります。
カラダはこのエンを結晶化する様にDNAを構築し、カラダという機織りをしていきます。
まだまだ解明されていない神秘です。
さらに私の個人的な興味として、
「塩(しお)」という存在もカラダや自然環境のゼロ地点を司る役割としてみています。
塩を始め無機物なものが繋がり、またこれを触媒にしてはじめて有機物というものが生まれ、そこに生命が宿ります。
自然環境の浄化と構築の両方の役割を持つ「塩」もまた現実の「縁」かもしれません。
いろいろな世界にトリップしてしまいましたが、
結果として「縁」というものは私達の手に届かない存在でもあり、でも私達の中にある確実な働きとしての存在でもあります。
やはり、今というこの瞬間のカラダの声と自分の意識の奥底に存在する身近なものであるようにも思えます。
憧れや焦りなどからはカラダの声は聞こえず違う道を走ってしまいそうです。
未来への憧れではなく、未来を見据えた意識と意図(横糸)を今という時間軸にコツコツと織り込む事からはじまるのかもしれませんね。
今回のテーマ「縁」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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