こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
前回の目の前の評価と心の世界から、今日は人生の中の中で起きるねじれの瞬間について考えてみたいと思います。
私達に馴染みがある代表的な表現は「厄年」でしょうか。
特に有名なのが、〜大師という名前のつく真言宗のお寺でしょうか。真言宗は上の写真のような不動明王を正面に護摩堂がある形態になっていますのでイメージしやすいのではないでしょうか?
厄除けや厄祓いは何も仏教だけではなく、神社でも大抵の所は行っているのではないでしょうか。
これは仏教が始まる前のヒンズー教にも同じスタイルで護摩を焚く祈祷があるので、日本には空海が密教として持ち帰ったものなのかもしれませんね。
世界を見渡すと、この人生の転機を10年サイクルや12年サイクルと位置づけていたりして、同じ現象を違った角度から捉えているようにも感じます。何に中心を置くかの違いでもあるのかもしれません。
これらを総称して「運命」と「宿命」と表現される事が多いですね。
ざっくり言えば「通り道」と「通過点」と言えばいいのでしょうか。
この「命」という字、「いのち」とも読みますが「めい」とも読みます。
「めい」と読む場合は時間(トキ)をあらわす表現でもあり、算命学などの占いでは時(トキ・暦)から算出する意味もありますね。よく神社で神の名前に〜命とありますが、時を司る存在として神を見ていたという側面も感じられますね。
日野原重明氏は「いのち」とは「時間」のことと解説されてましたので生命を見つめる側からも同じ様に見えていたのですね。
今回は分かりやすく「厄年」と私達の「命の交差点」として眺めていきます。
厄祓いや厄除けは、悪い事が起きやすい時期なので、魔を払い除けるという意味合いですね。
でも、魔という存在は有るのでしょうか?
これ自体の答えは出せませんが、私の認識では、昔の宗教者が一般の方々に、人生の転換期の意味や、都合の悪い事が起きる理由として分かりやすいようにイメージを作り上げてきたものと考えています。
今で言えば企業のイメージ広告のようなものではないでしょうか?
とはいえ、嘘をついていたのではなく、確かに転換期はいろいろな変化が起きる事もよくある事ですので、現代的に言えば注意喚起とアドバイスと捉えたら素晴らしいものでもあります。
では、何故そのような事が起きるか?
シンプルに言えば、「新しい役まわり」が来るからですね。
何年毎に変化するかは、それぞれの主張がある様ですので、特に触れませんが、定期的に変化するのは確かですね。
私達の人生は、振り返ってみれば全く同じキャラクター(又は性格)を生きてきたわけではない事に気がつくはずです。
その転機に気がつく人、気がつかない人、又は気がついても知らないふりをする人、様々でしょう。
転機が無いほどすんなりチェンジする方もいるのかもしれませんが、基本は転機があると思われます。
問題は、この転機が来た時にどうすりかです。
先ずは気付くか?気付かないか?
きずかない場合は、何か出来事があるのかもしれません。
これを神話の法則などでは住み慣れた世界からの離脱が起きますね。一種の孤独な世界です。
そしてそれを受け入れるか?受け入れないか?
正確に言うと、手放せるか?ですね。
何を?
それまでの役割に対する執着や、その役柄の古い世界観などですね。
これは世界中の神話がそうだった様に私達人類共通の人生での1ページなのでしょう。
余談ですが、これを神話の法則としてまとめた一つの作品がファインディング・ジョーです。
執着や世界観を手放すのは非常に難しく、精神的にもキツく、場合によっては病になるということは、この性質からも感じられます。
ただ、悪い存在が近ずいていたずらをする様な出来事ではなく、
自分自身の変化のことなんです。
真言密教での不動明王は私達の煩悩・執着・古い世界観を手放させるために、忿怒(ふんぬ)の形相と炎で焼き切ってしまう役割です。
ヒンズー教のシヴァ神が仏教に取り込まれた時に不動明王となっているとも言われています。その性質から見ても、次なる創造(生成)のために愛ある強制的破壊者と見れます。
本来ならば、自分自身で気付きを得ながら認め・受け入れ・手放すと出来れば人間性の向上の中で進めるというものですが、なかなか難しいです。
厄除けや厄祓いが必要かどうかではなく、その機会を使って未練を断ち切り、自らをゼロリセットする意思を発動させるにはいいのかもしれませんね。
厄は古い役割り(キャラクター)を終え、その先には新しい役割りが待っているというターニングポイントです。
言ってみれば、魂が進化するプラセスの一転換点でもあり、魂の別の個性を発揮させる時を得たともいえるものです。
普段はカラダの変換点をよくお知らせしているのですが、これも似たような側面があるように感じます。
どちらも「命の交差点」で次のステージへの切り返し点でもあります。
最後に今の時代という「トキ」からみると、『令和』の「令」に「口」をつける事で「命」という漢字が生まれるようです。
「命」という漢字は「命令」の「令」に「口」という字を添えたもの。
「令」は、儀礼の際に用いる帽子をかぶり、ひざまずいて神のお告げを聴いている人を示した象形文字です。
甲骨文字を見ると、目深に帽子をかぶり、手をひざの上で礼儀正しく揃えて神の言葉を待つ人の様子が描かれています。
「口」は、白川文字学でおなじみの「サイ」。神への祈りの言葉、祝詞を入れる器を意味します。
つまり「命」とは、祝詞を唱えて祈りを捧げる人に、神のお告げとして天から与えられたもの、という意味をもつのです。【漢字トリビア】「命」の成り立ち物語 (2016年2月19日) - エキサイトニュース
このブログではカラダ視点を中心にしていますので、これをカラダに見立てると、大事な入れ物(玉手箱)である脳から背骨を経由して上から下へ神の縦糸である神経が張り巡らされ、細胞が情報をキャッチしている姿ともみえます。
カラダにとって令和は、脳神経から全身を統合し直すきかいかましれませんね。
その統合の上に魂が次のステージに進むべく新たな役割を発動していくのが令和においての「ヤク(厄・役)」の捉え方になり、払ったり避けたりせず、しっかり見つめる事から始まるかもしれませんね。
神社やお寺を大事にしながらも新しい時代での向き合い方も大事ですね。
書いている私自身も弱い心ですので、自身への教訓として。
今回のテーマ「厄年」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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