こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
今回は先日の「鬼」の話を書いていて浮かび上がってきたテーマです。
「自覚」
鬼の話の後半ででてきた
「執着」と
そこから発生する「欲望」
さらにそれが満たされないと発生する「怒り」
ニュースをはじめとして、ネット上に上がる情報は、このような背景や想いが関係しているものばかりですね。
ここに気づいつ我に帰るプロセスで浮上してくるキーワードが「自覚」と「自我」ではないでしょうか?
「鬼」の語源に「魂」や「カミ」など見えないものの総称のような意味合いがあったと書きましたが、
これらの背景から「鬼」とは、
外側にあると感じている「敵」や「悪」が実は内側の世界から生み出され、外側に投影された世界観や価値観がソースになっているとも見えてきます。
ここで「自覚」の概念を少し見てみたいと思います。
広い意味では、自分とそれ以外を認識すること。
今回の文脈で言えば、自分の内側と外側の区別がつき内側をしっかり認識する事ですね。
もともと「自覚」とは、日本では仏教用語で気付きの意味で「自らを覚る(サトル)」という事が語源のようですが、
西洋からの、「self-consciousness」「realize」「self-awareness」などと合流して更に哲学的に解釈が進化してきています。
なかなか一言では済まない感じですか、
自分を生み出しているソース(価値観など)を認識して、外側に何を見ているか気付く事が「自覚」する第一歩のように私は考えています。
カラダ的に見ていくと、
病気などでよく「自覚症状」があるかないか?などのやりとりがあるのですが、病気の場合とくにそうですが、より根本的な原因に近づく程、自覚症状もなく、原因の自覚はない傾向にあります。
中国医学では、精神や心に忍び込む邪を「鬼」、より肉体(体感的)に忍び込む邪を「虫」などと言ったりしますね。
どちらも実際存在するものではなく、都合の悪いものを「悪者」にして外に追い出したいという欲求の表れですね。
なので、それを認識して、直視できることを「覚る(さとる)」と言ったのではないかと思います。
節分に「鬼」を祓うというのは、「自覚」する機会だよて勝手に今は解釈しています。
もう少し日本的に私達の日常に例えると
神社への参拝がこのプロセスだと思います。
参拝の祓いの工程は、
- 「鏡」に向かい自らを見つめ、
- ありのままの自分を直視し、
- 謙虚な姿勢で「剣」を内なる自分に向けて内省し、
- 奥にある「勾玉」を魂と認識する。
有難い事でもあるし、人によってはさとりのようにも感じるのでは?
外に見るもねと内なる「魂」との「差をとる」(無くす)ことが「覚り」であり「自覚」なのではないでしょうか?
チョット大袈裟な話になってしまいましたね。
もっとシンプルにカラダ的に言えば、
カラダの声を聴く事が、「自覚」の第一歩の様にみえてきますね。
節分までのこの機会をカラダの声を聴く時としたら、清々しい「立春」が迎えられそうですね。
これは自分自身への教訓として、備忘録
今回のテーマ「内なる鬼」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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