薬剤師が語る 生活のタネ

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快適生活は幸福か?それとも代償を伴ったのか? ③

こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです

今日も私見たっぷりのタネをお届けします。

快適生活と旅の関係

 

前回に続き今日は最近私の中で気になっている「快適さと旅の関係 」について

 

快適さの弊害について、カラダライフスタイルにフォーカスしながら環境のうち側と外側を考えました。そして幸福から母性と父性について前回考えました。

 

そして今回は外と内の環境や快適さの価値観の変遷の中に「」というキーワードが出てくる気がします。

「旅」といっても旅行であったり時間や場所の移動としての概念を旅とも表現しますね。 

今回はそれらを総合的に快適さとの関係で考えて参ります。

 

 

まず旅行は私も年数回機会がありますが、いろんなスタイルがあります。

最近は南の国の成長真っ只中だったり、これから急成長する街によく行く。

とはいっても快適さを求めてラグジュアリーなホテルやお店に行くわけではないですね。

現地の人がよく行くところを眺めたり、同じようなものを食べたり、現地の文化に触れたりが一番の楽しみになります。スケジュール通りに行かないことがかえって収穫になることも多く楽しんでいます。

 

アジアの南国へ多く行って楽しいのは、インフラや社会システムが私達のように整っていない中で情報化の波がやってきた結果いろんな変化が起きているのが私には非常にいい刺激になって、帰国した時のホッとする安心感や日本てやっぱり一番いいねという思いの一方で、現地で感じたことや文化や食を取り込みながら自分自身が変化していることがまた楽しいと感じ結果的に近年はアジアばかりになってしまいます。

 

 

このように私が海外へ旅しているような行動の事を一般的に「観光」といいますね。この言葉の由来は聞いたことがある方は多いとはおまいますが、

古代中国からある易経の中のにあるものです。「」という項目の中に【観国之光 利用賓于王 (国の光を観る もって王に賓たるによろし)】要は、他国の良いところを見て自国に役立てると行った内容ですが、「観」という時は見物するのではなくよーく眺めながら分析・研究して自分自身に(自国)に用いる意図があります。

 

そこから旅を考えてみると、自分の知らない他国(他地域)へ赴き、そこの中に入り自分で多くを味わってみて、その良いところを持ち帰り自分(国)に取り込んで行く感じかもしれません。目的は様々でもプロセスは現在も同じなのかもしれません。

 

 

非常に抽象的に言ってしまうと

こちらからあちらに境界線を越えていき、そこにある異文化や異なる環境や人種を超えてこちらにない非日常(あちらでは日常)の世界を観察することによってこちらの世界に取り込んで行く。その事でもともとあった境界線や自分の柱が揺らぎ境界が広がって行く感じがします。

 

意識の概念で考えても

意識がこちらから外のあちらへ境界線を越えて行った時、評価せず観察する事で境界線が少し変化して、意識のフレームが揺らぎながら広がっていくことや、別のフレームが構築されている感じが楽しい。

 

  

もちろん旅行(観光)もそうですが、場所の移動に限らず、時間軸の移動を旅とみると人生を旅と見立てることも多いですね。人生を道に例えたりしますね。

 

追い求める快適さというものから見た時に、私たちは何故快適さとは逆とも言える旅をするのでしょうか?

 これはあくまでも私の感覚なので一般的かどうかわかりませんが、

私が旅(移動)するのは自分の常識が通じない世界(場所・時間)へ行き、多くの価値観に触れることが私の常識が変化し、よく言えば意識の領域が広がり今まで否定していたものすら自分の領域に入り善悪を越えて受け止められるようになって行くことを無意識で求めているのでは?

などと妄想してしまいます。

 

さらに時間軸にフォーカスしてみると

歳を重ねる毎に時間も旅する人も多いのではないでしょうか?

自分の人生の変遷はもちろん、血縁と自分の関連、更に歴史上の人物の人生、そして時代の移り変わりから、歴史全体へと。

私の勝手なイメージですが、年輩の方ほど自分の歴史を越えて地域や国の歴史へと想いが及んで行く様に感じます。やはり、学校の教科書の中だけでは自分と関連性が結びつかないという事なのでしょうか?

 

 

また、最近映画などを見る度に思うのは、私たち人類の旅転換点がいままさにやってこようとしているのだろうなと印象を受ける事が多いです。もちろん映画がそういう意図で作られているわけではないとは思いますが。

 

私達のアウトドア意識、スポーツ志向、田舎への移住の流行り、さらに一緒にしていいのかわかりませんが移民の多さは、人間が求めてきた快適さを離れ、その外へ場所も意識も拡大し、ネットの世界も相互作用しながら境界線という概念そのものが薄まってきているのかもしれません。

これが何故か?はわかりませんが、私が感じているのは背景には

歴史の大きな流れで見たら、私達の現代の生活の基礎は、この2000年(日本)ぐらいで構築されたもので、それができる初期はシルクロードで交易や戦いも含め人類が大きく移動していた事で結果的に相互発展してきた様に見えます。

現在中国がまた現代版シルクロードをいろんなルートで作っています。意図はともかく、結果的に昔と同じように民族の壁を超え、生活の場所を変えながら、土地の所属ではなく、繋がりとしての所属に変わって、自分の土地というよりホームとしての記憶の場所になって行くのかもしれませんね。

日本では村→藩→日本→  と所属のエリアは拡大して次はアジアか地球かといった状況です。

人類が何らかの境界線を越えていくことで私達が固定されてきた枠や意識が広がるという流れが始まってきたのでしょうか?

 

 

私は医療や科学の観点からよく眺めますがこの領域は歴史的に宗教と深く関わってきましたのでこの流れは医療であっても変わりませんね。

また、目の前の患者さんや私達のライフスタイルを私なりに観察していても、この快適さを支える価値観に限界が来ているように見えますので、緊急性はないにしてもいずれ直面する課題になりそうですね。

 

固定された枠が広がり、軸も揺らいで柔軟になることは、

その都度自分の許容範囲が拡大しますし、それまで都合の悪かったものが自分の領域に入ることで新たな快適さに繋がる可能性は感じますね。

 もしかすると自分のいる領域内だけの快適さを追い求めるという事が限界にきているだけなのかもしれませんね。

 


今回のテーマ「快適生活は幸福か?それとも代償を伴ったか?」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。


タネ屋のマル

 

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丸山  泰弘

薬剤師、健康・レストランのコンサルタント

 

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