こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
薬剤師と健康やレストランのコンサルタントしてます。
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
〜今回のテーマは「未病」です〜
皆さんは未病という言葉は聞いたことがありますよね。
今では国家戦略にも組み込まれた概念です。
でも実際しっかり説明できる方はほとんどいないのではないでしょうか?
説明できたとしても人によって内容が違う可能性があります。
ここでは未病を説明するというより、未病という概念を通してみなさんのライフスタイルのアイデアにつながればいいなという感じで、私の捉えているところをキッカケにみなさんの中で自分に引きつけて考えて見ていただけると嬉しいです。
未病というのは、現代的な表現としては、
「病気でもないけど、健康でもない」「症状も出ていない」「検査で異常もない」けどどこか調子悪いんだよね〜
といた感じがニュアンスとしては伝わりますでしょうか?
実際そういう方がよく受診されてます。
そもそもみなさんの中で病気と健康についての意味合いは全く違って捕らえられている可能性が高いので、そういう考え方があるのね〜となってしまうかもしれませんね。
未病という概念そのものは
もともとはアーユルヴェーダの中の概念が一番初めではないでしょうか。
言葉としても未病は中国の中医学の黄帝内径に記述のあった言葉になります。
この二つでも内容が違って中国の医学ではまとめて未病になっています。
アーユルヴェーダは健康から病気の段階踏まえてグラデーションで表現されているのであえて区切れば4つの区分けがされています。
それだけ東洋の医学は未病という状態に注目して生活やカラダを観ていたんですね。
では日本ではどうでしょう?
歴史っしては、6世紀ごろ仏教伝来と一緒にアーユルヴェーダと中医学が混ざったような形で入ってきて、今で言う漢方の原型になっていますね。
私達に比較的馴染みのある「養生訓」を書いた貝原益軒は中国医学の「黄帝内径」を引用して
聖人は未病を治すとは、病いがまだおこらざる時、かねてつつしめば病いなく、もし飲食・色欲などの内慾をこらえず、風・寒・暑・湿の外邪をふせがざれば、其おかす事はすこしなれども、後に病をなす事は大にして久し。内慾と外邪をつつしまざるによりて、大病となりて、思ひの外にふかきうれひにしづみ、久しく苦しむは、病のならひなり。病をうくれば、病苦のみならず、いたき針にて身をさし、あつき灸にて身をやき、苦き薬にて身をせめ、くひたき物をくはず、もにたきものをのまずして、身をくるしめ、心をいたましむ。
と書いています。
なんとなくそうだよねとは思いますね。
ではここで
未病をを治す聖人とは誰でしょう?
この聖人という概念を現代の私たちに引きつけてかんがえてみたときわたしはこうとらえてみました。
聖人とは
自分自身では?わかりやすく言えば私達の中にいるのでは?
私は自律神経と脳が今の私達にとっての聖人だと思っています。
名医は世界中にいますが、未病を治す聖人は自分の内側に実はいたんです。
今後未病とは、健康より、病気より、大事な注目すべき領域になってくるかもしれません。
内なる聖人の声を聴いて考え行動を起こすことで治療(自律的な調整)が成されて未病が改善していくのでしょう。
もしかすると、この未病という領域で昔の方は自分と自然界と宇宙のバランスをとっていたのではないでしょうか?
こうみてみると、逆に聖人が私たちに語りかけている状態が未病という領域なのかもしれませんね。
以前までパワースポットと言われていた所も歴史的な意義や魂の記憶として重要かもしれませんが、これからより人間としての現実的なライフスタイルとして考えたとき、私達のカラダと居場所が本当のパワースポットに切り替わるのではないでしょうか?
外に答えを求めて行くのも重要な時はありますが、意外に目の前の空間、更には自分自身のカラダ空間の中に真実が隠れているかもしれませんよ〜
それを実現する現場は、日常の家であり、職場であり、飲食店を始めコミュニケーションの場である空間
時間の流れにこの空間がハタオリし織りなされた場を作っていきたいなーと思っています。
こんな場が未病を治すことなのではと私なりに考えています。
今回のテーマ「未病」はいかがでしたか?
あなたにとっての新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
このブログは私見(個人的見解)が中心となります。
しかしながら皆様の私見や疑問なども取り入れて新しいタネの発見ができる大きな可能性があると思います。質問やご意見を頂けましたら、一緒に考えて参りますので是非投げかけて下さい。お待ちしております。