こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
現在上野でやっている東寺展へ行ってまいりました。
混んでいますが、並んでいるわけではないためゆとりをもって見れました。
今回はその備忘録として私の感想を曼荼羅ワールドの冒険として記してみます。
振り返ると、空海も大事にしていた山形の出羽三山から新潟の妙高山(須弥山)を得ての東寺展だったため、この2週間ほどで曼荼羅ワールドを冒険していた様に感じます。
今回はその最後の東寺展での感想を書いてみようと思います。
あくまでも私自身の2週間の冒険の世界の感想なので実際の東寺展の意味や本来の意味は皆さん是非実際に行って味わってみてください。
東寺の土台は空海が持ち帰った密教ですので、教えじゃなく実践の経典ですかた自ら足を運んで実感するのが一番です。
これはフィクションだと思って楽しんでいただければ幸いです。
私自身は仏教や神道の話をたまに書いていますが、宗教自体には興味はなく、カラダや自然環境や宇宙の事が知りたくて探求していくプロセスで、昔はこれらを全て集約していた古代の叡智として仏教や神道やヒンズー教やキリスト教他それらの経典の中をヒントを求めて私自身の冒険をしています。
ですから教えそのものより教えを生み出す原理をそれぞれ抽象的に眺めては想像を膨らませているんです。
今回は展示を見て私が感じたものになります。
東寺展は空海が日本に持ち帰った密教の中心原理が全部込められているとも言われています。
曼荼羅の詳細を学んだことはございませんので一つ一つの内容はわたしには語れませんが、
先日ご紹介した須弥山がブッダの修行した場所とも言われて曼荼羅の元型としてよく使われているものです。
下の写真は東寺の曼荼羅
左の写真が胎蔵界曼荼羅で宇宙の根本原理、須弥山を平面的に表現
今で言えば宇宙のシステムや構造といった物理的な科学を表現してます。
右の金剛界曼荼羅は左の宇宙の中心に向かうための道のり(プロセス)、今で言えば、心理学・哲学・実践行動方針・個別のサイエンスなどを表現していると言ったらいいのでしょうか。
総論と各論というとちょっと違うかもしれませんがイメージしやすいのではないでしょうか?
また須弥山を立体的に表現されているものが曼荼羅と一緒に展示されています。
それが仏舎利です。
小さく金色のもので中国から持ち帰ったと説明されていたと記憶しています。
仏舎利は日本では三重塔や五重塔で有名ですし、アジアではストゥーパとも言われていますね。
元々はお釈迦様のお骨を入れる場所で、後に経典を入れる場所だったりと仏教の中心原理がこの中の柱になっているという事を表現していますね。
これも江戸時代までは真言密教のお寺の管轄のものです。
下の図はウィキペディアにあった仏舎利の一般的な構造と世界観を図式化してあります。
下の図もウィキペディにある須弥山のイメージ図になります。
上の図は元々はヒンズー教でインドを中心に考えられたものになる為
密教が広がった先でお寺を中心地とし、ブッダを山の柱として再構築(リデザイン)されたものでしょう。
日本にも明治に入るまで教育の一つの柱になっていた儒教の中にもこのエッセンスが表現されてきていますので、私たちのご先祖はいろんな角度からこの須弥山を体現してきたのかもしれません。
儒教の中の「易経」がありますが、この中心にある原理が、八卦です。
当たるも八卦当たらぬも八卦の占いの原理として知っている方が多いのでは?
八卦は胎蔵界曼荼羅の中心にある大日如来を中心とした8枚のハスの花弁がこれを表現しています。
須弥山では九山八海の上に立ち上がる山になって山頂にインドラ神がいる構造です。
仏教で泥の上に咲く蓮の花とはこの事で、大日如来は蓮華座の上に咲く太陽の如く表現されてます。
易経の八卦も例外ではなく、宇宙のシステムや構造を線で表現されてますね。
金剛界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅の中心の大日如来(易経では太極)を目指すための道のりとして64卦という様々なプロセスを表現しているのは、地域は違えども見ている世界観は一緒と言えそうですね。
易経に限らず世界には同じようなに表現されているものは他にもありそうです。
詳しくはありませんが、マヤ文明のピラミッドとマヤ暦なども非常に似たものを感じます。
エビプトのピラミッドももしかすると似たような世界観が隠れているかもしれませんね。
また須弥山は三千大世界という世界観の表現でもあります。
そこから空海が描いた曼荼羅は仏教の中の三千大世界の表現をしていたとも言えます。
三千大世界は簡単に訳してしまうと大宇宙になってしまいますが、
宇宙の根本原理という言い方もできます。
ヒンズー教も仏教も影響受けながら山の中で宇宙の根本原理を求めた、日本で言えば修験道に少し似たものが道教とも言えます。タオですね。これも密教的要素が強い様に感じます。
タオは漢字では道教と「道」という字を当てますね。
三千(ミチ)の根本原理を「道」と言ったのではないのでしょうか?
金剛界曼荼羅が大宇宙(胎蔵界曼荼羅)への「道のり(プロセス)」という事なので、
胎蔵界曼荼羅は三千(ミチ・道)の世界という見方ができます。
タオの象徴である太極はインドで言えば零の世界でしょう。
万物の生成・存在・変化・死の交差するポイントで、現代風に言えば時空間の発生場所です。
より現代的な表現にするならば、「道」は零地点を指し、そこへのプロセス(道のり)は人生というプロセスだから、大いに自分の人生を生きなさい!
だから八卦ではないが四苦八苦するし七転び八起きしながら0⇒1→2→4→8と自分の現実をつくっていく必要がありそれが生きる事としても言えるのかもしれません。
視点を日本文化の中に移してみると、
武道や茶道などと宇宙の根本原理を探求するプロセスの一つとして「道」をつけて一つの道筋をつけていったのではないのでしょうか?
目指す境地は一緒なのかもしれませんね。
極めた者が立つ零の領域
中国では儒教においては易経の棒という記号を使って、仏教では沢山の経典という文書(音)でこの三千世界を語ってきたのかもしれませんね。なので密教では観音様が重要な要素になっていますね。音(の世界)を観る様として。
未知(ミチ)の世界を観て認識することで生成・発展させていきます。
だいぶ妄想が進んでしまいましたか?
妄想ついでに、三千世界全体の俯瞰したフォーカスを変えて、
曼荼羅の中心部の基本構造についても少し感想を
この大日如来はヨーガで言えば須弥山の中心で人間の背骨に当たります。
なので、須弥山の山頂の主(脳)でもあるし、
自分自身の根本原理(中枢)を表しているとも言えそうです。
マクロコスモスとミクロコスモスという見方がわかりやすいでしょうか。
下が空海が一番力を入れた講堂(立体曼荼羅)の中心部の大まかな配置です。
不動明王が自らの煩悩を焼き切る働きで
菩薩が慈悲や愛をあらわします。
かなり個人的な想像ですが、下の図のように
現代的に言えば、
不動明王は自らを内省しる哲学的働きで内側にむける精神の動き
菩薩は不動明王で浮き出た煩悩焼き切った中心に残る愛や平和への実践(行動)を表していると感じました。
個人的な感想ですのでかなり都合よく解釈してしまってます。
曼荼羅の全体と中心の概念を重ねてみると、
三千世界の根本原理は私たちそれぞれの中にあり、
それを理解し、実行していくのが「道」でもあり、密教でいう実践につながるのかもしれませんね。
カラダ視点が強い私ですのでどうしてもこの様な視点になってしまいます。
まだ東寺展へ行っていない方、私のを参考にする必要はありませんが、
是非行って私達の文化の根底に眠っている世界を自分の目で認識して皆さんの中に呼び起こしてみてはいかがでしょうか?
発生元のヒンズー教を継承しながらも、ヒンズー教の想像主のシバ神を踏みつけていて、
古いものを壊しながら新しい世界をつくろうとした様子がロックです!今も昔も同じかもしれません。
空海が持ち帰った曼荼羅というテクノロジーは大きな役割を果たしてきました。
これからのテクノロジーはこれが発展するのか?それとも新たなテクノロジーが発生するのか?楽しみです。
今回のテーマ「曼荼羅ワールド」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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