こんにちは
生活のタネをお届けするタネ屋のマルです
今日も私見たっぷりのタネをお届けします。
今日は神社に祀られている「鏡(カガミ)」を通して私達の日常を豊かにするタネを探してみたいと思います。
神社に祀られている「鏡」は御神体とされているのは皆さんご存知の事かと思います。
古事記にあるように古神道では八咫鏡(ヤタノカガミ)が三種の神器として今上天皇まで受け継がれていますね。
私達が神社で鏡を見る行為は自分の中にいる神、または、自分自身の神聖な側面を見つめるという意味あいもあると言われています。(勿論いろんな解釈があるようですが)
いろんな「神」と呼ばれる存在があるとは私も思っています。
因みに私にとっては、神社の境内は子供の頃は、遊び場でもあり、いろんな人が集まる場所でもあると思っています。
確かにいろんな所作や技術により特別な儀式などもあります。
日本人にとっていろんな意味で重要な場所であったのは間違いないですね。
日本は八百万の神という概念があり、神社はその八百万の神との交流の場所でもあると思います。
鏡の向こう側は常世(とこよ)で私達のこの物質的な世界を現世(うつしよ)とも表現します。
常世が「天国」で、それを映し出した世界が現世とも捕らえられていました。
哲学の二律背反や裏表の世界観がここにあります。
仏教で言えば常世が「胎蔵界曼荼羅」の世界で現世が「金剛界曼荼羅」の世界とも表現出来ます。
私達のカラダには「神経」という「神の通り道」とでもいえる場所があります。
とはいってもそこを眺めても神が見える訳ではありませんね。
なので今までのご先祖様は鏡を通して、八百万の神でもあり、私達の中を通っている神に想いをはせ、最終的には自らが神と同じ存在であると認識すべく謙虚にしてきた側面はあるようです。
ここから、神社で鏡を見ることは八百万の神への敬意でもあり、自らの内にも同じように広がっている鏡の向こう側を見つめる事で自分自身の本質(神性)を見つめていたのでしょうか。
私は、祭りは地域の人々が集まり、八百万の神(天地や自然界)への感謝とともに、
互いの神性を見つめることで、その奥(裏)にいる神へ同じように感謝し、互いの「間(ま)」を「吊る(つる)」→「一体化する」事でもあるのではないかと以前から勝手な解釈をしています。
神社と同じような自分自身の神聖さと、同じ神聖さを持つ人々の優劣は本来ないものです。
ただ八百万の神のごとく、役割や特徴が違うだけの事、と考えてみる機会を神社の参拝時に持ってみてはいかがでしょうか?
ご利益とは、そんな違いを想う事のことかもしれません。
世界観は少し違うかもしれませんが、易経の「益」という卦は損益ね語源ですが、この様な背景は重なっている様に感じられます。
「益」は風雷益といい、八卦の「風」と「雷」は脳の合わせ鏡の様に左右を繋ぐ様な役割とも見えます。おまけに同じ組み合わせで「雷風恒」という交流から和合していく世界観も祭りの様にも見えてきます。
私達の先祖はその太極図を鏡と重ねて見ていたのでしょうか。
カラダの事を考えていると大げさな考え方からも見ていくことはあります。
しかし、イニシエノ智慧は抽象化されているため、宇宙の法則と見立てる事ができ、マクロコスモスと内側のミクロコスモスを連動させることで、自らの意思を調和の中で発揮できる可能性を秘めているのです。
単なる歴史や伝統という言葉で切り捨てないで、その背景に何があるか分かることで、結果的に伝統が継承されると思っています。
不確実な部分は多々ありますが、私もそのような視点からもしっかり検証して皆さんにお伝えできたら、と建国記念過ぎて改めて思っています。
今回のテーマ「鏡」はいかがでしたか?
新しいタネの発見につながっていったらうれしいです。
タネ屋のマル
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丸山 泰弘
薬剤師、健康・レストランのコンサルタント
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