薬剤師が語る 生活のタネ

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日本人の自然観とバウンダリー

自然の中に

 

私は自然豊かな長野の片田舎で育った

と言った時にイメージするのは

田園風景を手前に森林や山があるような情景ではないでしょうか?

 

因みに、私自身はその中にいた為、更に山岳部だったこともあり、自然とはその奥の森の中から先とイメージになってしまいます。

 

 

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ここでは最初の田園風景の方を基準に書いていきますね。

 

この情景とは、日本人にとって「里山」を指していたのかもしれません。

里山とは?

里山 - Wikipedia

関東でもまだまだ残っていると感じてはいますが、

私の子供の頃とは状況が変わって来ている様に感じているのは私だけではないかもしれませんね。

 

 

今日は、この数年、自然の猛威などのニュースなどから私達と自然というものの関係性について眺めてみたいと思います。

 

 

バウンダリーのボーダレス化

 

この数年、自然界である山や川などの氾濫が目立ちますね。

気象の波が激しさを増しているのが一因ではありますが、私達の生活圏が拡大し続けているのが大きいでしょう。

都市化が進み首都圏で働く人は増え、インフラが整備されれば住む場が郊外に拡大していきます。

また、ライフスタイルを求めて郊外へ移住する方も多いです。

この流れで里山の管理できる人は少なくなり山の麓まで住宅地に変貌してきました。

以前は夢のマイホームといったキャッチコピーがありましたね。

 

結果的に生活圏と山や森のバウンダリー(境界線)は何処にあるのかわからなく入り混じるカタチになっている地域は多そうですね。

 

 

他の生物とのバウンダリー

 

原因は様々ですが、

私達の移動や物のいどに伴い一緒に移動してきた動植物。

他の生物圏の動植物を飼いたい!見たい!という私達の欲望から移動してきた動植物。

育ててみたけど手放してしまったもの

 

山から下りて来た生物

海外からやってきた生物

私達の生活から発生した生物

 

何処から来ても、それらはその場所で必死に生き残ろうとします。

私達の思い通りにはなりませんね。

 

動植物全体の生活圏が、温暖化だけではなく、自らつくってきたキッカケをかわきりに多様に入り混じってきて、それぞれが自分の場所を得るべく攻防しています。

 

 

カラダのバウンダリー

カラダにも境界があります。

一番基準になるのが、

自分自身であるか自分以外のものかである境界線です。

 

自然なカラダといった時に、東洋医学のような古代の概念では、

一つのカラダと同時に自然環境全体が一つのものと考える事から始まっています。

そう考えると、地域の同じ気候や関係する地理的なものまでもがカラダと考えていましたので、自分以外は別の地域やそね地域にいる人たちと考えたかもしれません。

 

また、カラダそのものにフォーカスすると物質的には皮膚と粘膜が外界と隔てていますね。防壁としての「皮膚」とセンサーとしての「五感」、守りとしての「免疫」と調整役の「自律神経」がありますね。

境界線上には微生物と共生しているとも言えますが、私達のバリアが弱まっている事で、菌を体内に侵入させてしまう事が多くなりました。

カラダにはマクロファージという番人がいて対応策を指示するのですが、私達にとってその症状は不都合に感じるためクスリで叩きたくなってしまいます。

慌てて抗生物質を使ってしまいます。

皮膚も必要以上に殺菌したくなってしまいますね。

 

その一方で、同じようなシステムで機能している腸内の菌を一生懸命補充して育てている人も少なくありませんね。

 

我々はいつのころか微生物をカラダに取り込み自分の一部として一体化することによって今の調和をつくり出したとも言われています。ミトコンドリアやマクロファージなどがそうとも言われています。

更にそれらが外敵と自分自身のバウンダリーを作り出しながらも、役割を終えると自らカラダから消えていくアポトーシスという自分自身の存続まで決めるような存在になっています。

 

 

物語と文化のバウンダリー

 

グローバル化と共に世界中の神話や歴史、そして宗教や文化に触れる機会がふえてますね。

 

しかし、神話の法則などからもわかるように、世界の神話はほぼ同じ構造でストーリーも重なります。

心理学で言えば集合無意識というのがあてはまりますでしょうか?

 

その証拠に、日本のアニメやゲームは世界中で受け入れられてますね。

 

宗教にかんしても、歴史を辿ると殆ど集約されて同じような象徴を使っているとも言えます。

そこから生まれてくる文化も互いに理解しやすいものともいえそうですね。

勿論チョットした違いや利害で紛争は絶えません。

これは時代が経ち、細分化される中で、同じものより違う事にフォーカスする事でのバウンダリーを意図してつくる行為でもあります。

 

現象としてはバウンダリーが消えていく中にあって、私達の意識の中でのバウンダリーがより強化されてきているとも感じられますね。

 

 

 

こう見てくると、私達は、境界の乗り越えて互いに交流しながらも新たな境界をわざわざつくり、自分を再構築し、比較や競争しながら時には争い時には境界を無くして融合しながら進化してきたのかもしれませんね。

 

 

新たな時代に向かう時は、境界線を無くし共に融合したり、一方では境界線を引く事で自分を際立たせたりもする、そんな事を頻繁に入れ替えて揺れ動きながら新たなシステムを構築していくのかもしれませんね。

 

 

良くも悪くも私達の環境のバウンダリーは現在は無くなっていく傾向が強い中、古来からの自然観も同様に変動していきます。

同様にカラダの境界線も揺れ動いていきます。

 

自律と共有はどう融合していくのか?

今後の新しい技術と自然観の矛盾を乗り越えていくシステムは生まれてくるのか気になるところですね。

 


タネ屋のマル

 

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丸山  泰弘

薬剤師、健康・レストランのコンサルタント

 

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